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東京地方裁判所 平成4年(行ウ)45号 判決 1995年6月28日

原告

椎名恵美子

右訴訟代理人弁護士

中村三郎

被告

国立精神・神経センター総長杉田秀夫

右訴訟代理人弁護士

齋藤健

右指定代理人

秋山仁美

村田英雄

鹿内清三

小林桂雄

相良尚吉

宮島清範

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一原告の請求

被告が、原告に対して平成元年六月一六日付けでした懲戒免職処分を取り消す。

第二事案の概要

一  争いのない事実

1  原告の経歴

原告(昭和一七年七月二四日生)は、昭和三六年福島県立磐城女子高等学校を卒業し、同年四月国立霞ケ浦病院附属高等看護学院に入学し、同三九年三月同看護学院を卒業し、同年五月二〇日看護婦免許を取得した。

そして、原告は、昭和三九年三月一四日から同年五月一九日まで同病院第一病棟(産婦人科)に看護助手として、同月二〇日から同四一年八月三一日まで看護婦として勤務し、同四一年九月一日同病院第一〇病棟(内科)に配置換えされ、同日から同四五年三月三一日まで同病棟に看護婦として勤務し、同四五年四月一日同病院附属高等看護学校に配置換えされ、同日から同四七年六月三〇日まで同看護学校に専任教員として勤務した。

その後原告は、同四八年七月一日国立国府台病院に配置換えされ、同日から同六二年三月三一日まで同病院第一六病棟(混合外科病棟、以下、一六病棟ともいう。)看護婦長として勤務し、その後同病院は、病院等の統合により、同六二年四月一日国立精神・神経センター国府台病院(以下、国府台病院という。)となり、一六病棟は、一部病棟の再編により同六二年八月頃脳外科単一病棟となったが、原告は、引き続き一六病棟看護婦長として勤務した。

この間、原告は、昭和四一年七月一日人事院規則九―八第二〇条の規定による特別昇給を受け、また、同五〇年一月一日、同五五年七月一日及び同六二年一月一日いずれも同規則九―八第三七条一項二号の規定による特別昇給を受けた。

2  原告の配置換え拒否

国府台病院を含む国立病院の看護婦(士)長の配置換えは、病院外の異動を除いては、看護部長が作成した看護婦(士)及び看護婦(士)長の人事異動計画案に基づき、任命権者である被告によりなされるものであるところ、平成元年四月一日の異動に当たり、同病院の看護部長田河内ツル子(以下、田河内看護部長という。)は、同年三月一四日の看護婦(士)長会において、原告に対し、原告を中央材料室(以下、中材ともいう。)看護婦長に配置換え(以下、本件配置換えという。)をする旨の内示をした。

ところが、原告は、同年四月一日、本件配置換え発令がなされたにもかかわらず、これに従わず、同日から同月七日午前中までの間、前職場である一六病棟にとどまった。

そして原告は、同月七日から頸部捻挫等の症状により医療法人岩井総合病院(以下、岩井総合病院という。)を受診・通院し、頸椎捻挫による通院加療が必要であることを理由に、同月八日、被告に対し、同月八日から同月二一日までの期間につき、病気休暇申請をしたところ、被告は、同月一一日から同月二一日までについて右申請を承認した。

同月二五日、原告は、同月二二日から同年五月一二日までの期間につき、同じ理由で病気休暇承認申請をしたところ、被告は、これを承認した。

原告は、さらに、同じ理由で同月一三日以降も病気休暇が必要であるとして、同月一三日付けで病気休暇承認申請を不承認とすることを決定(以下、本件病休申請不承認決定という。)し、原告に対し勤務命令を発したが、原告はこれに従わず、欠勤を続けた。

3  原告に対する懲戒免職処分

被告は、平成元年六月一六日付けで原告を国家公務員法(以下、国公法という。)八二条一号・二号の規定により懲戒免職処分(以下、本件懲戒免職処分という。)に付したが、同処分説明書には、次のとおり記載されている。

「貴職(原告)は、国立精神・神経センター国府台病院看護婦長として上司の命を受け、部下を指揮監督し、中央材料室の業務を処理する職務上の義務がありながら、次の国公法の違反行為があった。

(1) 平成元年四月一日に、中央材料室の勤務の発令が発せられたところ、正当な理由なくこれに従わず、また再三上司の指導、命令にもかかわらず、同月七日の午前中まで勤務に就くことなく、前職場である一六病棟にとどまり、職務の秩序に混乱を生じさせ、施設運営に重大なる支障を与えた。

(2) 平成元年五月一三日以降の病気休暇の承認がなされていなく、勤務に服するよう再三にわたり命令を受けたにもかかわらず長期にわたり欠勤状態が続いている。

以上の行為は、国公法九八条一項の規定による法令及び上司の職務上の命令に従う義務及び同法一〇一条一項の規定による職務に専念する義務に違反する行為であり、その責任は重大である。」

二  争点

本件懲戒免職処分の効力の有無が争点であり、具体的には、本件懲戒免職処分の理由とされた本件配置換え拒否行為の違法性、本件病休申請不承認決定後の欠勤の違法性であって、これらの争点に関する当事者双方の主張は、次のとおりである。

1  原告の主張

(一) 本件配置換え拒否について

田河内看護部長は、昭和六二年九月国府台病院に赴任してきたものであるところ、昭和六三年四月頃、原告に対し、同年七月に会計検査院の会計検査があることを理由に、物品共用簿を整理記入して同病院運営部会計課に協力するよう指示し、これを受けて小出晋一会計課補給係長(以下、小出係長という。)が、物品供用簿に記入を求めて、一六病棟の物品供用官である原告のもとに原告作成名義の供用請求書及び受領書六枚を持参したが、原告は、右供用請求書及び受領書は偽造であるので、右記入を断ったことがあった。このことがあってから、原告と田河内看護部長の人間関係はギクシャクするようになり、同看護部長は、原告に敵意すら抱いていた。

そのため、同看護部長は、平成元年四月一日の異動に際し、病棟看護婦長として臨床看護業務に生き甲斐を見出し、同業務を続けていきたいという強い願望を抱いていた原告に対し、確立した慣行を無視し、なんらの打診・説得・調整等の手順を経ることなく、間接業務ともいうべき中央材料室への配置換えを一方的かつ抜き打ち的に行い、しかも同配置換えは、同看護部長をかばう浅井光男運営部次長(以下、浅井次長という。)の強権的な脅しによる問答無用の状態の下に強行された。このような人事権を濫用してなされた懲罰的で違法不当な本件配置換えにより、原告の受けたショックはたとえようもなく大きく、そのため深く傷つき追込まれることとなり、やむをえず配置換えを拒否するに至ったものである。したがって、右配置換え拒否について正当な理由がある。

また、原告は、一六病棟に四月一日から同七日午前までの六日間とどまったものであるが、その際、同病棟の新任の看護婦長である望月光江(以下、望月婦長という。)及び同病棟の看護婦、看護助手ならびに青木晃外科医長らに対し、原告自身が同病棟の看護婦長の地位から降り、今後一看護婦として働くこととなった旨告げ、同病棟の看護婦及び看護助手に指示・指導はせず、もっぱら患者の機能訓練及び身の回りの世話に専念していた。このように原告は、望月婦長の職務を妨害したり、看護婦及び看護助手に指示・指導したりすることもなく、患者も原告の看護をごく自然に受け入れ、動揺や苦情はなかった。したがって、問題にする程の職場秩序の混乱はなく、施設運営に重大な支障を与えたことはなかった。

(二) 欠勤について

原告が本件病休申請不承認決定により欠勤とされた平成元年五月一三日から本件懲戒免職処分に付された同年六月一六日までの間に、欠勤扱いとされた日数は三〇日にすぎず、長期にわたる欠勤状態とはいえない。原告の病気休暇申請は、岩井総合病院の医師で、原告の主治医である野間清邦医師(以下、野間医師という。)の「中材婦長という職種からみて勤務できる状態ではない。」との意見を無視して不承認とされたものであり、違法不当といわざるを得ない。原告は、平成元年四月七日午前、国府台病院の廣川浩一院長(以下、廣川院長という。)以下の病院幹部から一六病棟看護記録室(以下、記録室という。)において、監禁状態にされたうえ集団暴行を受け、右暴行による頸椎捻挫により、後頭部、右頸部付根の痛み、右肩、肩甲部の痛み、こり、右上肢の痛み、しびれ、右手指(第四指・第五指)のしびれ、右手握力の低下等の症状が著しく重く、頸椎部に運動制限があり、出勤しようと思ってもできない状態にあり、勤務命令に応じられなかった。

(三) 以上のとおり、本件懲戒免職処分は、社会通念上著しく妥当性を欠き、被告に許された裁量権を濫用した懲罰的かつ違法不当なものであり、取り消されるべきものである。

2  被告の主張

(一) 本件配置換え拒否について

国府台病院の平成元年四月一日付け人事異動に関し、看護部関係では、<1>業務が惰性に流れることを防ぎ、その活性化を図る、<2>多角的看護管理ができる中間管理者の育成を図る、<3>同年三月三一日付けの定年退職者の後補充をする、との基本的視点に基づき、<4>看護婦(士)長のうち同一職場に五年以上の者が約半数を占めているのでこれを是正する、<5>看護婦(士)長の配置は、個人的な希望などの理由のみにより行うべきものではないので、一部の反対者を抑えるためにも全員を異動させることにより対処する、との方針を立てた。中材婦長の矢島林子(以下、矢島前婦長という。)は、同年三月三一日付けで定年退職の予定であったところ、中材は、院内の感染防止と医療業務の能率向上を目的とし、医療に必要な機械、器具及び衛生材料を集中的に管理する部門で、これらの滅菌作業、効率的な供給・回収・安全な保管、品質の維持管理、適正な在庫管理業務を行う部門であり、滅菌・消毒に関し、中材職員のみならず病棟等の職員の教育を行うことも中材婦長の職務として重要であった。原告は、一六病棟婦長の職にあること一五年九か月の長きにわたっており、看護学校の教官の経験があり、理論的に物事を解決処理し得る能力を有し、その経験を生かして中材の発展的な改善が期待できるので、病院当局は、中材婦長の欠員補充として原告を選定したものである。

国公法には意向打診という制度はなく、内示を行うか否か、行う場合にいっせいに行うか個別的に行うかは、当該人事異動の規模、その時期が定期か臨時か、施設内異動か施設外異動か等を勘案して任命権者が決定すべきことで、その裁量に委ねられているものである。配置換えに当たり、国府台病院を含む国立病院において意向打診・説得・調整等の手順が慣行として確立していたようなことはない。原告は、平成元年三月一四日の本件配置換えの内示後、同年四月一日の発令までの間、本件配置換えについて普通の態度をもって話し合おうとせず、配置換え命令拒否を公言し、看護部長等に威迫を加え、暴言を吐いたものであって、国家公務員として、特に中間管理職である看護婦長として常軌を逸した行動をとった。原告はその後同月一日から七日まで一六病棟に居座り続けたものであるが、病棟は、入院患者の生命・身体の安全に直接かかわる職場であってその秩序を乱すことは患者の生命・身体に重大な影響を及ぼすものであるところ、患者の看護を職務とし、しかも指導的立場にある看護婦長である原告がこのような行為に及ぶことの悪質性は特に重大である。原告は、同月一一日、廣川院長に対し、始末書を提出し、辞令を受領したが、このような態度も一時を糊塗するためのものにすぎず、真に自己の言動を反省していたものではなかった。

(二) 欠勤について

国府台病院当局は、原告が四月一日以来引き続き一六病棟に居座っており、注意に赴いても病室に逃げ込んで注意を聞かないので、警告書を読み上げて確実に警告し、一六病棟の秩序を回復することとし、廣川院長、荒川直人副院長(以下、荒川副院長という。)、田河内看護部長、浅井次長、細川雅夫庶務第二課長(以下、細川庶務第二課長という。)、榎本敬三庶務第二課長補佐(以下、榎本庶務第二課長補佐という。)、及び宮原誠一庶務第二課庶務係長(以下、宮原庶務係長という。)が、一六病棟記録室に赴いた。その際、トラブルを避けるため、同室の出入口に立つ職員は、手を後ろ手に組み、一切原告に手を出さないことを打ち合わせていた。原告は、記録室において、廣川院長らの姿を見るや、当初同室東側にある別紙図面(略、以下同じ)表示のA出入口から脱出しようとしたが、同所では榎本庶務第二課長補佐がとっさに左手で台車を柱に押しつけ、右手で出入口の柱を掴んで阻止したため、西側の右図面表示のB出入口に廻り、同所に手を後ろ手に組んで立っていた細川庶務第二課長と宮原庶務係長との間を細川庶務第二課長の左胸のあたりにぶつかり、宮原庶務係長の右腕あたりに触れてこじあけ、細川庶務第二課長が半歩下がって間隙ができたところを走ってすり抜けて出た。このような状況の下で、手や顔面に擦過傷や軽度の頸椎捻挫が発症する可能性が全くないとはいえないが、これら傷害の発生は、原告の無謀な脱出行為に起因するものであり、病院当局の暴行に基づくものとはいえない。

病院当局は、原告の平成元年五月一三日付けの本件病休承認申請に対し、荒川院長及び田河内看護部長が岩井総合病院を訪問し、野間医師から、<1>本人は頸が痛い、手がしびれると訴えているが、理学療法担当者の意見等を総合すると、最初は辛そうであったが、近頃はさほどでもない。<2>出勤しようと思えばできる状態である。<3>診断書の内容は、現在通院加療の事実を述べたにすぎず、休養を要することを意味しない、との説明を受け、協議の結果、同月三〇日、右申請を不承認とする旨を決定(本件病休申請不承認決定)した。右不承認決定と勤務を命ずる旨の通知は、同年六月二日、原告に到達したが、原告は、出勤せず、病院当局になんらの連絡もしなかったばかりか、同月五日、原告代理人の中村三郎弁護士(以下、中村弁護士という。)を介し、「四月七日病院当局に監禁、暴行され負傷したので告訴することを通告する。」旨の通告をなし、さらに同月一三日付けで、細川庶務第二課長に対し、「あなた方の暴行により受けた傷害により就労できる状態にない。」旨の回答をした。右のような態度は、勤務命令に応じるつもりが全くないばかりか、自らの責任を転嫁し、廣川院長らを威迫して懲戒処分を免れようとするものであって、極めて悪質である。

(三) 以上のように、原告に対する本件懲戒免職処分の処分理由事実が存在すること、及びその職務秩序紊乱の程度が極めて重大であることは明らかである。国家公務員につき、国公法に定められた懲戒事由がある場合に、懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、懲戒権者の裁量に任されており、このような懲戒権の行使としての本件懲戒免職処分はまことに妥当なものであり、違法の非難を受ける余地はない。

第三争点に対する判断

一  公務員に対する懲戒処分は、公務員としてふさわしくない非行がある場合に、その責任を確認し、公務員関係の秩序を維持するため科される制裁であり、懲戒権者は、懲戒事由に該当すると認められる行為の原因、動機、性質、態様、結果、影響等のほか、当該公務員の右行為の前後における態度、懲戒処分等の処分歴、選択する処分が他の公務員及び社会に与える影響等、諸般の事情を考慮して、懲戒処分をすべきかどうか、また、懲戒処分をする場合にいかなる処分を選択すべきか、を決定することができるものと考えられる。そして、公務員につき、国公法に定められた懲戒事由がある場合に、懲戒処分を行うかどうか、また、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、懲戒権者の裁量に任されているものと解すべきであり、右裁量は、恣意にわたることを得ないものであることは当然であるが、懲戒権者が右の裁量権の行使としてした懲戒処分は、社会観念上著しく妥当を欠いて裁量権を付与した目的を逸脱し、これを濫用したと認められる場合でない限り、その裁量権の範囲内にあるものとして、違法とならないものというべきである(最高裁昭和五二年一二月二〇日第三小法廷判決・民集三一巻七号一一〇一頁参照)。

そこで、右の観点から、被告のした本件懲戒免職処分が、被告に委ねられた裁量権を逸脱した濫用にわたるものであるかどうかについて判断する。

二  本件懲戒免職処分に至る経過

前記争いのない事実と証拠(<証拠・人証略>)によれば、以下の事実が認められる。

1  本件配置換えの内示

(一) 国府台病院では、平成元年四月一日の人事異動に当たり、<1>業務が惰性に流れることを防ぎ、その活性化を図る、<2>多角的看護管理ができる中間管理者の育成を図る、<3>同年三月三一日付けの定年退職者の後補充をする、との基本的視点に基づき、<4>看護婦(士)長のうち同一職場に五年以上の者が約半数(二〇名中一二名)を占めているのでこれを是正する、<5>看護婦(士)長の配置は、個人的な希望などの理由のみにより行うべきものではないので、一部の反対者を抑えるためにも全員を異動させることにより対処する、等の方針を立てた。

平成元年二月二八日の婦(士)長会において、田河内看護部長から、各看護婦(士)長に対し、四月一日で看護婦(士)長の配置換え予定であるので各自職場の整理をしておくべき旨の指示があり、配置換えに当たり当人に打診しないこともある旨伝達された。このような指示、伝達は、前年度の定期異動の際にも田河内看護部長から発せられていた。

看護婦(士)長の人事異動計画案は、病院外の異動を除き、まず看護部長がこれを作成することとされており、平成元年三月上旬頃、田河内看護部長の作成した人事異動計画案に基づき、同看護部長と、廣川院長、荒川副院長、浅井次長の協議により、看護婦(士)長については二〇名全員を異動させる大規模な人事異動計画(以下、本件人事異動という。)が内定された。

(二) ところで、原告は、昭和六三年一〇月四日付けでなされた「昭和六四年六月三〇日までの退職、勤務交替等の調」に対し、「必ず配置換えがあるとしたらどこを希望しますか。」との照会欄に「なし」と記入していたところ、病院当局は、本件人事異動に際し、原告を一六病棟婦長から中材婦長に配置換えする旨を決定したが、その理由は、次のとおりであった。すなわち、中材の矢島婦長は、平成元年三月三一日付けで定年退職の予定であったが、中材は、院内の感染防止と医療業務の能率向上を目的とし、医療に必要な機械、器具及び衛生材料を集中的に管理し、これらの滅菌作業、効率的な供給・回収・安全な保管、品質の維持管理、適正な在庫管理業務を行う部門であり、滅菌・消毒に関し中材職員のみならず病棟等の職員の教育を行うことも中材婦長の職務として重要であったところ、原告は、一六病棟婦長の職にあること最長の一五年九か月にわたっており、看護学校の教官の経験があり、理論的に物事を解決処理し得る能力を有し、その経験を生かして中材の発展的な改善が期待できると考えられた、ということであった。

看護婦(士)長についての本件人事異動の内示は、平成元年三月一四日の婦(士)長会において、田河内看護部長により発表された。

(三) 原告は、本件配置換えに不満を抱き、同月一五日、中材の矢島婦長に対し、「中材にはいかないので申し送りの準備はしなくてよい。Xデーは四月一日である。」などと告げ、また本件人事異動において、一六病棟に配置換えを内示された望月婦長に対し、「自分は動かない。来ても申し送りはしない。」などと告げた。

同年三月二四日、原告は、看護部長室において、田河内看護部長に対し、「自分はどうして中材に配置換えになったのかその理由をいえ。」などと詰問し、同看護部長が、「中材は看護の重要な場所で、看護の中核を担うところであり、ずっと病棟勤務であったので中材で勤務してほしい。」と答えたところ、原告は、「あんたとこうして始めて話すんだ。内示を受けるつもりはない。」などと暴言を吐いた。

同年三月二五日と同月二七日、原告の委任を受けた中村弁護士が田河内看護部長に面会を求め、「昭和六三年七月に会計検査があったとき、昭和六〇年ないし同六二年の物品供用簿に記入するよう命じたが、物品が入っていない受領書に原告の知らないところで印が押されて偽造されている。」などといって抗議した。

同月二八日、原告は、看護部長室において、田河内看護部長に対し、「弁護士にきのうなぜ会わなかった。逃げ回っていただろう。そんなことをすると職権濫用で合法的に処罰されるからな。」などと暴言を吐いた。中村弁護士は、同月二九日にも田河内看護部長に面会を求めてきた。

同月三〇日、原告は、田河内看護部長に対し、「弁護士さんにきのうは会ったか。返事しろ。徹底してやるからな。敵なんだ。戦うから、法廷でやる。物品供用簿に書けといったな。偽造された伝票をのせるように婦長会でもいっている。」などと暴言を吐いた。

同月三一日、原告は、矢場和世副看護部長(以下、矢場副看護部長という。)に対し、「自分の人事に余計な口出しするな。口出しすると三流どころで登場させてやるからな。」と暴言を吐いた。

2  平成元年四月一日(土曜日)の状況

(一) 本件異動は、平成元年三月下旬頃、任命権者である被告により、原案どおり決定され、その辞令交付は、同年四月一日午前九時小会議室において行うことが示達されていたが、原告は、同日、同会議室に出頭しなかった。

そのため浅井次長は、同日午前九時四分、一六病棟にいた原告に対し、電話で「中材婦長への配置換えが発令されているので辞令を受領するように。」と告げたが、原告は、「辞令は受領しない。」といって一方的に電話を切った。

同日午前九時二五分、田河内看護部長が原告に対し、電話で「院長室で辞令を交付するから受領するように。」と命じたが、原告は、「受領しない。」といって一方的に電話を切った。

同日午前一〇時一〇分、浅井次長が原告に対し、「院長が用がある。辞令を交付するのではない。院長室へ来るように。」と告げたところ、原告は、「用があるなら院長から直接電話下さい。」といって一方的に電話を切った。

同日午前一〇時一二分、廣川院長が原告に対し、電話で「話をしたいので院長室へ来るように。」と命じたが、原告は、「何の用か。」といい、一方的に電話を切った。

そこで廣川院長は、同日午前一〇時一五分、荒川副院長、浅井次長及び田河内看護部長とともに、一六病棟に赴き、原告を空いている病室に呼び出し、「辞令の受領を拒み、職場の秩序と規律を乱したことは極めて遺憾である。直ちに職務上の命令に従うよう厳重注意する」旨の厳重注意書を読み上げ、これを原告に手渡した。原告は、一旦同厳重注意書を受け取ったが、「これは受け取らない。」などといいながら廣川院長に返そうとした。原告は、同院長に拒否されると、荒川副院長の診察衣のポケットに再三にわたり入れようとしたが、同副院長にも拒否されると、「これは弁護士に渡した方がよい。」といって受領した。

同日午前一〇時五二分、原告は、院長室において、廣川院長に対し、右厳重注意書を返そうとしたが、同院長に拒否されると、これを院長の机上に置いて立ち去った。

原告は、同日、一六病棟に新任の望月婦長が着任したにもかかわらず、事務引継ぎを行わず、同病棟の病棟管理日誌(<証拠略>)に、日付、天気、定床数、患者数、日勤者の氏名、重症者の氏名・年齢・病名を記入し、婦長欄に自己の記名捺印をした。そして、原告は、同日午前一一時一五分頃、新規採用者のオリエンテーションを行い、望月婦長に対し、「患者のところに行かないでくれ。患者が混乱するから。」と告げた。

同日、病院当局は、原告に対し、辞令書を書留郵便で発送し、原告は、これを同月一一日市川郵便局で受領した。

3  同年四月三日(月曜日)の状況

(一) 原告は、この日も一六病棟にとどまっていたので、同日午前九時三〇分、廣川院長、荒川副院長、田河内看護部長、浅井次長、細川庶務第二課長及び榎本同課長補佐は、原告に対し、中材の業務に就き、一六病棟の業務を妨げないよう勧告するため、同病棟に赴き、記録室にいた原告に対し、空いている病室に来るよう命じたところ、原告は、一旦廊下へ出てきたが、「なんで行かなければいけないのか。」といいながら、記録室の奥に逃げ込み、行方が分からなくなった。

そこで、院長は、記録室に一六病棟看護婦五名を集め、<1>四月一日付けで一六病棟婦長には望月婦長が任命されていること、<2>今後は望月婦長の指示に従うこと、<3>一六病棟の業務に関しては原告の指示は無視してよいこと、<4>この場にいない一六病棟の看護婦にもこの旨伝えることを訓示した。

同日午前一〇時、矢場副看護部長が用務で一六病棟に出向くと、原告は、同副看護部長に対し、「自分はいなくともテープをセットしたので分かる。余計なことをしゃべるな。」と暴言を吐いた。

同日午前一〇時二〇分、田河内看護部長と浅井次長は、原告に立入禁止命令書を渡すため一六病棟に出向いたが、原告は、同看護部長らの姿を見ると、入院患者がいる病室に逃げ込み、出てこなかった。同一〇時四五分、同看護部長らは、再度一六病棟に出向いたが、原告は病室から出てこず、その後病棟内放送で記録室に呼出をしたが、やはり出てこなかった。さらに同一一時三〇分、田河内看護部長らが一六病棟に出向くと、原告は同看護部長らの姿を見るとまたも逃げ出し、行方が分からなくなった。

(二) この間、原告は、前同様病棟管理日誌(<証拠略>)を作成し、同日午前八時三〇分、一六病棟の看護婦に対し、「出勤しても業務しないといけないからな。私に何かあれば皆に証人になってもらうよ。」と告げた。同日午後一時四〇分、望月婦長から矢場副看護部長に対し、「私はどうすればよいのか。中央材料室の辞令をもらってもよいが。」との申出がなされた。これに対し、同副看護部長は、「もう少し頑張るように」と指示した。原告は、同日午後三時四五分、一六病棟看護婦に対し、中村弁護士を紹介し、「今後何か起こったら証人になってもらうよ。」と告げた。同病棟看護婦から、田河内看護部長に対し、「二人看護婦長がいるので、我々は今後どうすればよいのか分からない。この状態がいつまで続くのか。早く何とかしてほしい。」との苦情が寄せられた。

同日午後四時三〇分、田河内看護部長らは、一六病棟に赴き、同病棟看護婦に対し、「なるべく早く適当な措置を考える。今暫く辛抱するように。」と指導した。

同日午後六時頃、病院当局は、一六病棟の入口の柱や病棟内の電気スイッチ箱に、「厚生技官椎名恵美子、速やかに中央材料室勤務に就くこと。なお、業務に支障をきたすため、当分の間、一六病棟への立入りを禁止する。病院長」と記載した前記立入禁止命令書を掲示した。

4  同年四月四日(火曜日)の状況

原告は、この日も一六病棟にとどまっていたので、病院当局は、原告に対し、「辞令の受領を拒否しているが、配置換えの効力は既に発生している。なおも旧職場に止まり、新職務を放棄することは法令及び上司の命令に違反する行為である。このような状態が続くならば懲戒処分をも考慮せざるを得ない。」との勧告書を準備し、同日午前八時三〇分、浅井次長は、一六病棟に出向き、同勧告書の内容を伝えたが、原告は、同次長の鼻先にテープレコーダーを突きつけ、「はいどうぞ、一方通行ね。あなたは何の権限でいうのか。」といった。

同日午後八時四〇分、荒川副院長と浅井次長は、原告に右勧告書を渡すため、一六病棟に赴いたが、原告は、同副院長らの姿を見ると、入院患者のいる病室に逃げ込み、出てこなかった。

そこで病院当局は、原告に対し、前記同旨の勧告書を内容証明郵便で発送し、原告は、これを同月一〇日受領した。

原告は、同日も前同様病棟管理日誌(<証拠略>)を作成した。同日午後三時、望月婦長は、田河内看護部長に対し、「原告は、一六病棟二四一号室の病室(患者小泉テル)に入ったまま約三時間出てこない。」旨報告した。

5  同年四月五日(水曜日)の状況

原告は、この日も一六病棟にとどまり、前同様病棟管理日誌(<証拠略>)を作成した。同日午後二時三〇分、同病棟看護婦から、矢場副看護部長に対し、「原告は、入院患者の病室に入りつきりである。患者はどちらが婦長か分からず困っている。」との報告がなされた。

6  同年四月六日(木曜日)の状況

原告は、この日も一六病棟にとどまっていたため、浅井次長は、同日午前八時一五分、原告に中材の勤務に就くことを命じるとともに、一六病棟の勤務者の業務を妨害しないよう注意するため同病棟に赴いたが、原告は、同次長の姿をみると、記録室から入院患者のいる病室に逃げ込んだ。

同日同一一時一〇分、矢場副看護部長が一六病棟に出向くと、原告は、同副看護部長に対し、「貼り紙なんか怖くない。六か月間組合名と施設長名で貼られた。今から六年前だ。施設の男がチョロチョロ来て病室を覗くけどあれはよくないよ。私は逃げていないんだ。代理人と話せばいいのに、そんなことも当局は分からないんだろうか。今、私はとってもいい気分で看護している。呼出もないし、じっくり患者と対話ができる。私は欠勤はしていない。そのことだけはっきりしておいて。中材は部長室の管理なんだから、ちゃんと行って見ておかないと事故が起きたら大変なことになるからね。まあ見てな。私の怖さを知らない。普通の人と思ったら大まちがいだ。」などといった。

原告は、前同様、同日の病棟管理日誌(<証拠略>)を作成した。

7  同年四月七日(金曜日)の状況

(一) 原告は、この日も一六病棟にとどまっており、廣川院長らは、原告が同病棟に居座り続けていることにより、同病棟の業務遂行は混乱の極に達していると判断した。

同日午前一〇時、院長室に、廣川院長、荒川副院長、田河内看護部長、浅(ママ)次長、細川庶務第二課長、榎本同課長補佐、宮原庶務係長が参集し、原告に対し、「中央材料室に勤務しないことは、『法令及び上司の命令に従う義務』ならびに『職務専念義務』に違反しており、職務を怠っている。また、一六病棟の職場の混乱を招いている。なお、職場放棄した期間について、給与の減額を行う。」との院長名の警告書を読み上げて確実に警告し、一六病棟の秩序を回復する措置を講ずることとし、警告書の伝達方法につき、次のとおり打ち合わせた。すなわち、<1>原告が記録室にいることを確認すること、<2>原告が病室に逃げ込まないように記録室の入口にそれぞれ所定の職員が立つこと、その場合、手は後ろに組むこと、<3>警告書は院長が読み上げ、原告に交付すること、とされた。

(二) 同日同一〇時四〇分、原告が一六病棟記録室にいることが確認され、同一一時、右廣川院長ほか六名の病院幹部らは、一六病棟記録室に赴き、同室において、同院長が右警告書を読み上げて警告した。その際の状況は、次のとおりである。

廣川院長は、原告が記録室の記録台の傍にいるのを見て、同記録台に近い西側にある別紙図面表示のB出入口から記録室内に入り、荒川副院長、田河内看護部長がこれに続いて入った。原告は、廣川院長らの姿を見るや、テープレコーダーを片手に持ち、「私の体に触ると一一〇番する。」と叫びながら、カルテ戸棚の南側を回って逃げ出した。廣川院長は、「椎名婦長」と呼びかけ、逃げる原告を追って警告書を読み上げて警告した。原告は、当初東側の別紙図面表示のA出入口から廊下に逃げようとしたが、同所には榎本庶務第二課長補佐が立っており、同補佐がとっさに左手で台車を柱に押しつけ、右手で出入口の柱を掴んで台車を利用して脱出を阻止したので、B出入口に廻り、同所に手を後ろ手に組んで立っていた細川庶務第二課長と宮原庶務係長との間を、細川庶務第二課長の左胸辺りに体当たりし、宮原庶務係長の右腕辺りに触れてこじあけ、細川庶務第二課長が半歩下がって間隙ができたところを走ってすり抜けて廊下に出た。その際、原告の看護婦帽を止めていたヘヤピンが外れた。

(三) 原告は、中央廊下へ走って出ていき、病院内の公衆電話で、一一〇番架電し、集団監禁・暴行を受けた旨訴え、その後市川警察署の巡査が事情聴取に国府台病院を訪れた。

その後原告は、同日午前一一時過ぎ、国府台病院皮膚科の富岡容子医師の診察を受けた。同医師は、両前腕・顔面擦過症で数か所に表皮剥離を認め、全治一週間と診断し、軟膏を塗る等の治療をした。

原告は、同日午後〇時三〇分、阿津公子副看護部長(以下、阿津副看護部長という。)に対し、年次休暇承認申請書を提出して退出した。

原告は、同日夜、岩井総合病院を受診し、当直の窪田医師の診察を受けた。原告は、同医師に対し、「職場の六人の男性に部屋に閉じ込められ、逃げようとしたとき、押さえつけられた。首を押さえられ、右手第四・第五指が痺れる。肩、首痛がする。」旨訴えた。同医師は、頸椎捻挫と認め、湿布の処置をした。

(四) 同日午後七時三〇分、病院当局は、前記年次休暇承認申請につき、本来の職務に就いていない状態では承認できないと決定し、矢場副看護部長に原告にその旨伝達させることとした。同副看護部長は、同日午後八時頃、原告宅に電話したが不在であり、同日午後一〇時六分、自宅から電話したところ、電話が通じたので、原告に右不承認を伝達した。その際、原告は、「不法監禁状態にあい、脱出しようとして首を痛めた。手が痺れて字も書けない。だから休む。年休でなく病休だ。診断書をもらってきた。今家で寝ている。」などと述べた。

8  同年四月八日(土曜日)の状況

(一) 原告は、この日は出勤せず、岩井総合病院整形外科の戸島康晴医師(以下、戸島医師という。)の診察を受けた。原告は、同医師に対し、頸部の痛みを訴え、同医師は、「頸部の可動域の減少、両側第八頸神経領域の知覚障害左より右が大、頸部の六方向のレントゲン写真によれば頸椎の配列正常、第五頸神経から第一胸神経までの筋力評価異常なし」との所見を認め、頸椎捻挫と診断し、鎮痛剤・筋弛緩剤・精神安定剤等を投与(七日分)し、ポリネックソフトの装着を指示した。なお同医師は、その際、原告について「被害者意識が強い。」との印象を抱いていた。

(二) 原告は、同日午後四時二五分、国府台病院の夜勤婦長室を訪れ、準夜勤勤務中の矢場副看護部長に同日付けの岩井総合病院田口貞文医師作成名義(ただし実際は、戸島医師が作成した。)の診断書を添えて、同日から同月二一日までの期間の病休承認申請書を提出した。右診断書には、「病名・頸椎捻挫、約二週間の通院治療・局所の安静を要する見込みである。」と記載されている。原告は、右病休承認申請書を提出する際、矢場副看護部長に対し、「子供の使いではあるまいし、命令でございますと部長のいうとおりになっているけど、大変なことになるぞ。」などと暴言を吐いた。

9  同年四月一〇日(月曜日)の状況

(一) 原告は、同日も出勤しなかったが、同日、病院当局が同年四月四日付けで発していたものの不在配達で局留めになっていた内容証明郵便(勧告書)を受領し、同日午後一時四五分、矢場副看護部長に電話し、「四日付けの内容証明を見た。中材は人がいないだろうから辞令を受け取ってもよい。」と申し出た。同副看護部長はすぐ病院に出頭するよう命じたが、原告は、「今体がきつい。」といって応じず電話を切った。その後同二時五分、原告は、再び矢場副看護部長に電話し、「今きついから。」などと出頭を渋っていたが、同副看護部長が「明日なんていっていたら大変なことになるから、今すぐ来なさい。」と説得すると、原告は、当局が少人数でなら出頭してもよいと応じた。

(二) 同日午後三時一〇分、原告は、国府台病院の看護部長室に出頭し、矢場副看護部長に連れられ、運営部次長室に出頭した。原告は、浅井次長に対し、「むち打ちは、再発したら一生治らないといわれた。辞令のことは頭の中に入っている。辞令は受ける。今日は体の調子が悪い。」などといい、浅井次長が国府台病院への入院治療を勧めたのに対し、「親が来るからいい。」と断った。そして、同次長は、原告に対し、「懲戒処分の方向で検討されており、結論は早めに出るだろう。法令及び上司の命令に忠実に従う義務に違反し、職務専念義務に違反し、かつ職場の秩序を乱したことは重大である。単に辞令を受けます、勤務に就きますでは済まされないことと思う。」と説示した。原告が、「どうしたらいいでしょうか。」と尋ねたのに対し、同次長は、「反省していることを表す書面を出すとともに、大切なことは改悛の意を態度で表すことである。」と説示した。その結果、原告は、始末書を書くことを承諾し、その形式・内容につき同次長の教示を受け、国府台病院の近くの尾関昭子(尾関魚店)方で、「私は、この度法令及び上司の命令に忠実に従う義務及び職務専念義務に違反したことを深く反省しております。今後二度とこのような過ちをしないことを固く誓うとともに、その折りはいかなる処分を受けても異議は申立てません。この度のことについては、何卒情状酌量をお願い致します。」との始末書を作成し、これを同次長に預けた。そして、同次長は、原告に対し、明日、同始末書を原告から直接廣川院長に手渡すこと、及び辞令を市川郵便局に取りにいくよう指示した。

10  同年四月一一日(火曜日)の状況

原告は、同日午前九時過ぎ、市川郵便局において病院当局が四月一日に発送していた本件配置換えの辞令(<証拠略>)を受領したうえ、同日午前九時五〇分、国府台病院に出頭し、院長室において、廣川院長に対し、口頭で反省している旨詫びを述べ、始末書を提出し、同院長から正式に辞令を受け取った。

その後原告は、中材婦長として上司・同僚・部下に対する挨拶や業務引継ぎをせず、病院を退出した。

11  辞令受領後の原告の行動

(一) 原告は、翌一二日以降、病院に対し、なんらの連絡もせず、出勤もしなくなった。原告は、平成元年四月一〇日、一三日、一五日、一九日と、二〇日以降はほとんど毎日、岩井総合病院に通院していた。原告は、午前中、同病院で診察を受け、午後は尾関昭子方で食事等の世話になり、午後七時ないし八時頃帰宅する毎日であった。

病院当局は、同年四月一八日、一九日、二〇日に、いずれも数回にわたり原告方に電話連絡を取ったが通ぜず、同月二一日に原告から看護部長室に電話が入ったので、阿津副看護部長は、原告に対し、「自宅を長く留守にするときは、行き先を連絡するように。診断書の期日は今日で切れるから、(岩井総合病院での治療)結果を連絡するように。」と指示した。

(二) 原告は、同年四月二二日になり、やっと看護部長室に出頭した。病院当局は、原告の同年四月八日付けの病休承認申請につき、所属欄の記載を中(ママ)一六病棟から中材、始期を四月八日から四月一一日、期間を一四日間から一一日間に訂正させたうえ、同月二四日付けで、同月二一日までの病休を承認した。その際浅井次長は、原告に対し、「始末書を提出したからといって事が落着したことにはならない。反省していることを態度で表す大事な時期である。」旨説示した。

(三) 同月二五日、原告は、福士千代婦長を介し、野間医師作成の診断書を添え、同月二二日付けで、期間を同日から同年五月一二日までとする病休承認申請書を提出した。同診断書には、「頸部捻挫により約三週間の通院加療を要する見込みである。」と記載されていた。同年四月二五日、荒川副院長は、右診断書の内容について野間医師に電話で照会したところ、「二週間は休養加療、一週間は通院加療の趣旨である。」との回答がなされ、病院当局は、右病休承認申請につき、同年五月一二日までの病休を承認した。

(四) 病院当局は、その後も原告から連絡がないため、同年四月二七日、二八日、五月二日に、病状の確認と給与の支払に関する連絡のため、原告方に電話したが通じず、同年五月二日午後九時三五分、浅井次長が原告方に電話したところ、ようやく通じた。そこで同次長は、原告に対し、「何回電話しても不在のようだ。方法とか時間を決めるとかして、一日一回は看護部長室と連絡が取れるようにしておくように。先日も説明したとおり経過観察期間ともいえるので、指示に従うように。」と告げた。原告は、同次長に対し、「毎日タクシーで通院し、一〇キログラム以上の牽引をしている。大変辛いので国府台病院に寄ることはできない。頸を直さないと将来にわたって勤務できないおそれがある。今はそれしか考えられない。」と述べた。

12  本件病休承認申請の不承認

(一) 原告は、平成元年五月一二日午後三時頃、矢場副看護部長に電話し、相変わらず手が痺れる旨の病状報告をしたところ、同副看護部長は、原告に対し、「一三日で診断書が切れるので明日持ってくるように。」と指示した。

原告は、同月一五日午後九時四五分頃、準夜勤中の矢場副看護部長を夜勤婦長室に訪ね、野間医師作成の診断書を添えて、同月一三日付け病休承認申請書を提出した(本件病休承認申請)。右診断書には、「頸部捻挫により現在通院加療中である。」と記載されているのみであり、また右病休承認申請書には、始期が同年五月一三日と記載されているのみで、終期の記載がないので、同副看護部長は、「期間の記載がないと受け取れない。」というと、原告は、「医者が急性期を過ぎているから期間を書けないといっている。休暇うんぬんよりも病気を治すことが先決なので、休職も考えている。けがをさせたのは病院なのだから。」などといい、同副看護部長がその対応中に急患の連絡があったため、救急室に赴いた間に、原告は右病休承認申請書を夜勤婦長の机上に置いて退出した。

(二) 病院当局は、原告の本件病休承認申請につき、病状調査の必要があると判断し、荒川副院長及び田河内看護部長が、同年五月二四日岩井総合病院を訪問し、原告の主治医である野間医師に面会し、病状等について尋ねた。野間医師は、その際、「原告の来院時間は、午前九時頃であり、同一〇時ないし一一時には診療は終了する。来院当初は通院日は不定であったが、同年四月二〇日以降は休日を除いて連日通院している。治療内容は、首の牽引一〇分間と超音波一〇分間である。投薬は、鎮痛剤・筋弛緩剤・精神安定剤・ビタミンB12であり、鎮痛剤は四月半ばまで投薬し、四月下旬以降の投薬内容は変わっていない。原告の愁訴は、当初は被害意識が強く、六人の男に胸を押さえられたといっていた。最近は脅迫の電話があると話していた。病状については、<1>本人は頸が痛い、手が痺れると訴えているが、理学療法担当者の意見等を総合すると、当初は辛そうであったが、近頃はさほどでもない。<2>他覚的所見は認められない。<3>出勤しようと思えばできる状態で、本人の意志の問題だ。生活がかかっているのであれば働くであろう。性格の強い人のように感じた。<4>勤務に就くことは、本人の働く意志次第であり、本人には勤務に就いてもよいと再三話してある。<5>初診から九〇日後までには、当然勤務可能となるはずである。<6>国府台病院で診察を受けるよう再三勧めているが、本人は、『そうですね。』と答えるだけである。<7>診断書(五月一五日付け)の内容は、現在通院加療の事実を述べたにすぎず、休養を要することを意味していない。」(<証拠略>)と回答した。

(三) 同年五月三〇日、国府台病院は、廣川院長、荒川副院長、田河内看護部長、浅井次長らが右病状調査の結果に基づいて協議し、その結果、原告の本件病休承認申請は、不承認とする旨決定した(本件病休申請不承認決定)。

(四) 本件病休申請不承認決定の原告への伝達指示を受けた矢場副看護部長は、同月三一日午後三時四〇分から同四時四〇分にかけて、四回にわたり、原告方に電話したが、通じなかった。

そこで病院当局は、同日、原告に対し、「五月一三日付けの病気休暇承認申請は承認できない。したがって速やかに勤務に就くよう指示する。この指示に従わない場合には身分上の処分も考えざるを得ないこととなる。」旨の内容証明郵便を発送した。同内容表明郵便は、同年六月二日、原告に到達した。

13  勤務命令に対する原告の対応

(一) 原告は、右内容表明郵便を受領した後も、国府台病院に出勤せず、なんの連絡もしなかった。

原告は、平成元年六月五日、中村弁護士を介し、廣川院長、田河内看護部長及び浅井次長に対し、「四月七日病院当局に監禁・暴行され、長期加療を要する頸椎捻挫等の傷害を負わされた。今後絶対このような暴行行為のないよう厳重警告するとともに、右傷害事件については刑事告訴する準備中である。」旨の同月二日付けの通告書を内容証明郵便で送達した。

(二) これに対し、廣川院長、浅井次長及び田河内看護部長は、連名で、同月八日、中村弁護士に対し、右通告書の記載内容が全く事実に反するものである旨の通知書を内容証明郵便で送達した。

阿津副看護部長、細川庶務第二課長、及び榎本同課長補佐は、同月五日午後二時二〇分、同五五分の二回にわたり、原告に対する勤務命令を伝達するため、原告方を訪問したが、不在であった。同副看護部長らは、翌六日午後四時、同四時三〇分の二回にわたり、右同様の目的で原告方を訪れたが、やはり不在であった。

浅井次長、細川庶務第二課長、及び榎本同課長補佐らは、同月一二日午後六時一五分、右同様の目的で原告方を訪れたが、やはり不在であった。そこで浅井次長らは、庶務第二課長補佐名義の「先日内容証明郵便で、勤務命令及びこれに従わなかった場合には重大な懲戒処分を行わざるを得ないことを伝えているが、念のためその趣旨を徹底しようとして六月五日・六日に二回ずつ訪問したが、会うことができなかった。このまま推移すると、身分上にかかわる懲戒処分を実施することになるので、就労の意志がある場合は速やかに連絡して下さい。」との文書を原告方の郵便受箱に投函した。

(二)(ママ) ところが、原告は、同月一三日付けで細川庶務第二課長に宛て、「就労の意志がある場合には連絡するようにとのことだが、就労したくも貴方達の暴行により受けた傷害により就労できる状態ではない。」との文書を内容証明郵便で発し、同郵便は、翌一四日到達した。

14  本件懲戒免職処分

(一) 国府台病院当局は、前記平成元年五月三一日付け(同年六月二日到達)勤務命令に対する原告の対応にかんがみ、反省の態度が認められず、懲戒免職処分をせざるを得ないと判断し、同年六月一五日、任命権者である被告に対し、原告を同月一六日付けで懲戒免職することを上申し、被告は、その旨決定した。

(二) 廣川院長、浅井次長、細川庶務第二課長、榎本同課長補佐らは、同月一六日午前九時四五分、「原告を国公法八二条一号及び二号の規定により懲戒処分として免職する。」旨の懲戒処分書及び処分説明書を交付すべく原告方に赴いたが、原告が不在であったため、同日午後三時五分にも右同様の目的で原告方を訪れたが、やはり不在であった。

そこで、病院当局は、右懲戒処分書及び処分説明書を書留郵便で原告に発送し、同郵便は、同月二六日、原告に送達された。

三  国公法違反行為

1  本件配置換え拒否

(一) 原告は、前記二・2ないし7に認定したとおり、一六病棟婦長から中材婦長への平成元年四月一日付けの本件配置換え命令に従わず、平成元年四月一日から同月七日午前中までの間、廣川院長や田河内看護部長らから再三にわたり、勧告・指導・命令を受けたにもかかわらず、中材婦長の職務に就かず、一六病棟にとどまり続けたものであって、右行為は、国公法九八条一項所定の法令及び上司の職務上の命令に従う義務に違反し、かつ同法一〇一条所定の職務に専念する義務に違反したものと認められる。

(二) 原告は、昭和六三年七月頃、会計検査院の会計検査があった際、田河内看護部長の指示に反し、偽造の物品供用簿に整理記入を断ったことから、同看護部長との人間関係が悪化し、原告に敵意を抱いた同看護部長から懲罰的人事として本件配置換えを命じられた旨主張するので判断する。

証拠(<証拠・人証略>)によれば、次の事実が認められる。

(1) 国府台病院における物品購入の手続は、昭和六三年七月当時、まず、物品供用官である病棟婦(士)長が供用請求書・受領命令書の供用請求欄に記名捺印し、その後物品が購入された段階で、物品管理官である運営部次長が供用請求書・受領命令書の物品受領命令欄に記名捺印し、そして、物品供用官がこれを受領したときにその受領欄に記名捺印する手順となっており、右供用請求書・受領命令書の原本は会計課で保管されるが、その写しは病棟で物品供用官が保管することになっていた。

(2) 国府台病院では、同年七月七日と八日に、会計検査院の会計検査が予定されていたところ、昭和六三年五月中旬頃、田河内看護部長は、婦(士)長会において、右会計検査に当たり、供用簿を整理しておくよう指示した。その際、婦長らから、「供用簿は今まで事務官が書いていたのになぜ自分達が書かなければいけないのか。」との質問が出された。そこで、同看護部長が会計課に問い合わせると、かつて、伝票の物品名の記載等が繁雑であるので、看護婦(士)長側の要望もあり、伝票の記入は会計課で行われ、看護婦(士)長の印鑑も会計課で保管されて事務処理がされていたことがあったが、このような事務処理方法は適当でないのでその後昭和六一年一〇月までには廃止されている、とのことであった。

小出係長は、昭和六一年一〇月に補給係長を命ぜられたものであるが、前記会計検査に先立ち、同月以降の会計課に保管されている供用請求書・受領命令書原本と病棟に保管されているその写し及び物品との照合を行った。

(3) 原告は、同年七月七日の会計検査の当日の朝、看護部長室に赴き、田河内看護部長に対し、「知らない伝票を女の子が持ってきて、その中に自分の知らない印鑑が作られて押されているので問題だ。外に訴えてやる。」と申し立てた。そこで、同看護部長は、「自分には分からないので、会計に聞いてほしい。」と答え、右申立てがあったことを運営部に報告した。

原告は、同日、浅井次長に対しても、右同様の申立てをし、そして、会計検査院の検査官の病棟巡視の際、係官に「ここはでたらめだ。」などと訴えた。

(4) しかし、右検査官から、国府台病院の会計処理に関して問題点の指摘はなく、原告が請求したことも受領したこともないと主張する昭和六〇年七月八日ないし同六一年三月二四日作成日付の供用請求書・受領命令書六通(<証拠略>)は、一六病棟で保管されていた写しであり、しかも、記載の物品は、いずれも一六病棟に備付けられている物品供用簿(<証拠略>)に記載され、また現に存在していた。

右認定事実によれば、会計検査のあった昭和六三年七月当時、供用請求書・受領命令書を物品供用官である病棟婦(士)長に代わって会計課で作成するとの不適正な取扱いは是正されており、それにもかかわらず、原告は、右取扱いがなされていた昭和六〇年七月ないし同六一年三月にかけて作成された供用請求書・受領命令書六通を捉え、これが偽造であるなどと主張して田河内看護部長に抗議を申し入れてきたものと認められる。しかし、右出来事によって、同看護部長と原告との人間関係が悪化するようになったとの事実を認めることはできない。また、原告は、その後田河内看護部長から種々の嫌がらせを受けるようになった旨主張するが、そのような事実は本件全証拠によっても認められず、原告の一方的な思い込みにすぎないというべきである。

(三) 次に、原告は、本件配置換えは、事前に打診・説得・調整等を行う慣行を無視してなされた一方的・抜き打ち的なものであって手続的に違法であるとの趣旨の主張をするので判断する。

国公法等の法令上、配置換えに当たり、事前の意向打診制度は採用されておらず、証拠(<証拠略>)によれば、国府台病院を含む国立病院において、異動予定者に対し、事前に意向打診することがあったとしても、当該人事異動計画において、意向打診を行うことがより円滑かつ合目的的な人事配置案の作成に資するとの判断の下になされたものであって、これが制度的に確立した慣行になっていたとの事実を認めることはできない。ことに、前記二・1に認定したとおり、本件異動は、同一職場に長期にわたって滞留する多数の看護婦(士)長を一挙に異動させる目的を有するものであり、田河内看護部長らは、公平を期するため、誰にも意向打診を行っておらず、そのことは既に、平成元年二月二八日の婦(士)長会において、同看護部長から予告されていたことであり、この方法は前年四月一日定期異動の際にも採られていたものであった。また、その前年一〇月に実施された人事異動希望調査に対し、原告が「必ず配置換えがあるとしたらどこを希望しますか。」との照会欄に「なし」と記入していたのであって、原告に対して中材の業務の一層の発展・改善に尽くすことを期待した本件異動が、一方的なものであったということはできない。

原告は、平成元年三月一五日、看護部長室において、田河内看護部長に対し、打診なく配置換えをした理由を問いただした際、浅井次長から「配置換え命令に従わなければクビだよ。」と脅された旨主張するが、右各事実を認めることはできない。

そうすると、被告が事前に原告の意向を打診することなく、本件配置換えを行ったことをもって、手続的に違法であるとはいえない。

(四) 国府台病院当局が本件人事異動に際し、原告を一六病棟婦長から中材婦長に配置換えした理由は、前記二・1のとおりであったと認められ、右事実によれば、本件配置換えをもって原告に敵意を抱いた同看護部長の懲罰的人事であるなどというに当たらず、本件配置換えは任命権者に委ねられた裁量権の範囲内の適正・妥当な人事配置であったと認められる。原告が、将来にわたり臨床看護業務を続けたいとの希望を抱いていたとしても、看護部門職員の全体の適正配置の観点から右希望が入れられないことがあるのもやむを得ないところであるというべきである。

2  本件病休申請不承認決定後の欠勤

(一) 原告は、前記二・12ないし14に認定したとおり、平成元年五月一三日を始期とする同月一二日付け病休承認申請が同月三〇日を不承認とされ、内容証明郵便による勤務命令(同年六月二日到達)を受けたにもかかわらず、同年五月一三日以降本件懲戒免職処分を受ける同年六月一六日までの間、欠勤を続けたものであって、右行為は、国公法九八条一項所定の法令及び上司の職務上の命令に従う義務に違反し、かつ同法一〇一条所定の職務に専念する義務に違反したものといわざるをえない。

(二) 原告は、本件病休申請不承認決定が違法不当である旨主張するので判断する。

一般職の職員の給与等に関する法律一四条の三は、一項で「職員の休暇は、年次休暇、病気休暇及び特別休暇とする。」と、五項で「病気休暇は、職員が負傷又は疾病のため療養する必要があり、その勤務しないことがやむを得ないと認められる場合における休暇とする。」と、七項で「病気休暇及び特別休暇については、人事院規則の定めるところにより、各庁の長又はその委任を受けた者の承認を受けなければならない。」と、それぞれ規定しており、同法の規定を受けた人事院規則一五―六第五項は、「休暇は、あらかじめ職員の所属する機関の長の承認を経なければ与えられない。」と、同第七項は、「引き続き六日(勤務を要しない日を除く。)を超える特別休暇又は病気休暇の承認を求めるに当たっては、事前事後を問わず医師の証明書その他勤務しない事由を十分に明らかにする書面を提出しなければならない。」と、それぞれ規定している。また同規則一五―一一第五条は、「病気休暇の期間は療養のため勤務しないことがやむを得ないと認められる必要最小限度の期間とする。」と規定しており、運用通達同規則一五―六第三項関係第一項は、特別休暇及び病気休暇は、「一日又は一時間を単位として与えるものとし、特に必要があると認められる場合には、一時間に満たない時間で与えることを妨げない。」と規定している。

右規定の趣旨を総合すれば、病気休暇は、職員が負傷又は疾病のため療養する必要があり、勤務しないことがやむを得ないと認められる場合、所属長の承認を得てはじめて付与されるものであり、右承認に当たっては、勤務しない事由が診断書等により客観的に証明されている必要があり、また、病気休暇の期間は、療養のため勤務しないことがやむを得ないと認められる必要最小限度の期間に限り、許容されるものである。

(三) そこで、原告の本件病休承認申請について、勤務しない事由が客観的に証明されたかどうかについて検討する。

(1) 原告が平成元年五月一三日付けでした本件病休承認申請は、頸部捻挫による通院加療の必要を理由とするものであるが、右頸部捻挫の発症原因としては、前記二・7に認定したとおり、平成元年四月七日午前一〇時四〇分頃、記録室において、原告が廣川院長らから警告された際、同室から脱出しようとして、別紙図面表示のA出入口において、榎本庶務第二課長補佐にこれを阻止されたときの接触行為、あるいは同図面表示のB出入口において、細川庶務第二課長と宮原庶務係長の間をすり抜けて脱出したときの接触行為、以外には考えられない。

ところで、原告は、右発症の際の状況について、「廣川院長らが、記録室に入ってきて、原告を取り囲み、けさのこと(同日の読売新聞朝刊に国府台病院における未消毒注射器払出し事故が報道されたことを指す。)は、あんたがやったんだろうと恫喝したので、原告は、恐れをなし、別紙図面表示のB出入口に向かったところ、細川庶務第二課長がドアを外側から押さえて開閉できないようにしていたため、同図面表示のA出入口に向かい、同所において、榎本庶務第二課長補佐から右手で原告の左肩を押さえつけられ、左手で原告の右肘を掴んで押さえつけられる暴行を受けた。」、「原告が榎本(ママ)庶務第二課長と宮原庶務課(ママ)長との間隙から脱出しようとすると、右両名は腹を突き出し、両手を広げ、出入口に立ちはだって阻止した。」、「次いで原告は、B出入口に向かい、同所において、細川庶務第二課長から右手で原告の頭頂部を強く押さえつけられ、左手で原告の左頸肩部を押さえ込まれる暴行を受けた。」、「そのため原告は、右後頸部のつけ根から右肩、肩甲骨の周囲に電撃熱感を生じ、余りの痛さに悲鳴をあげた。」旨主張し、これに沿う証拠(<証拠略>)がある。

しかしながら、廣川院長らが記録室に向かったのは、本件配置換えの命令に従わない原告に対して警告書を読み上げて警告するためであり、当時はそのこと自体を完うすることが急務であった状況にあったのであるから、同院長が未消毒注射器払出し事故に関する報道について言及する必要もなく、その余裕もなかったと認められる。そして、原告が記録室から脱出しようとした際の状況については、前記二・7に認定したとおりの事実関係であったことについては、廣川院長、荒川副院長、田河内看護部長、浅井次長、細川庶務第二課長、榎本同課長補佐、宮原庶務係長の各供述が、ほぼ符号しており、右各供述に不自然なところは認められないことからも裏付けられており、また、これに反する原告の供述は、原告が当時、廣川院長らから逃れようとして記録室内を右往左往しており、冷静に事態を把握できるような状況になかったと認められることからしても、にわかにこれを採用することはできないというべきである。

(2) 前記二・7に認定したとおり、原告は、右同日午前一一時過ぎ国府台病院皮膚科の富岡医師により、両前腕・顔面擦過傷の治療を受け、また、同日夜、岩井総合病院の窪田医師により、頸椎捻挫の治療(湿布)を受けたが、原告の受傷時の状況は、原告が別紙図面表示のA出入口付近で、榎本庶務第二課長補佐の身体を押しのけて脱出しようとした際、あるいは同図面表示のB出入口付近で、細川庶務第二課長に体当たりし、同課長と宮原庶務係長との間隙をすり抜けて脱出した際、頸椎捻挫の傷害を負ったと考えられるが、榎本庶務第二課長補佐、細川同課長及び宮原庶務係長らは、いずれも手を後ろ手に組んで立っており、積極的に有形力を行使しておらず、原告自ら必要もないのに脱出を試み、右傷害を負ったものであるということができ、したがって、右脱出の際、原告に加わった物理的圧力はさほど大きなものでなかったと認められ、原告の負った傷害の程度は軽度のものにとどまるとみるのが相当である。

そして、証拠(<証拠略>)によれば、原告は、その後岩井総合病院に通院し、主治医の野間医師の治療を受け、平成元年四月八日、一〇日、一三日、一五日と、同月一九日以降平成二年六月頃までほとんど毎日、その後同年一〇月頃までほぼ二日に一回、その後月に二、三回の割合で通院を続け、その間、鎮痛剤・筋弛緩剤・精神安定剤・湿布薬等の投与、頭部牽引、超短波による温熱療法、ポリネック装着等の治療を受けていたこと、右四月八日は、戸島医師により多少可動域の減少があると診察されたが、同月一三日には佐手医師より可動域の制限はないと診察され、同月二二日は戸島医師によりポリネックの終了が指示されたこと、その間、原告は、午前中、岩井総合病院に通院し、午後は尾関昭子方で食事や身の回りの世話を受け、夜に帰宅するという生活を平成元年一〇月末頃まで続け、その後も同二年二月末頃まで、尾関昭子に掃除・洗濯等の世話を受けていたこと、そして原告は、平成二年七月頃から病院でパート勤務に就き、同三年一二月から千葉商科大学の医務室に勤務してきたこと、以上の事実が認められる。

ところで、東京厚生年金病院整形外科部長森健躬監修にかかる「鞭打ち損傷ハンドブック」(<証拠略>)によれば、鞭打ち損傷は、頸椎捻挫が約七割を占め、頸椎捻挫の症状は、頭痛・頸部痛・頸部運動制限を中心とし、多くは眼のかすみ、吐き気・手足の痺れ等の症状が合併し、急性期の初期(受傷から一、二週)は、頸部の痛み、腫れぼったさ、熱っぽい感じ、運動痛、運動制限、頭痛と頭重感(特に後頭部など)、頸部・後頭部の症状を中心として、自律神経症状(めまい、眼のかすみや複視、耳なりなど)や腕の痺れなどが付け加わり、急性期の後期(二週以後四週まで)になると、広い範囲にあった痛みが比較的限局し、どの方向に動かしても痛かったのが、ある方向だけが痛いというように限局されてくる、亜急性期(受傷後三か月まで)になると、瘢痕化した組織が正常化していく時期であるから、頸部の運動性は次第に回復し、それに伴って運動痛も軽減し、自律神経や体性神経に対する刺激もとれ、その症状も次第に軽減していく、大半の患者はこの時期の終わりには無症状となるか、あるいはわずかな症状を残すまでに治り、受傷後三か月を過ぎてなお症状を訴える患者は一般的にいって存在しないか、あるいは他の疾病の合併などを考えなければならない、慢性化する例に心因性あるいは外傷性神経症などの心理的な問題が指摘され、その原因として、本人の<1>身体的要因として、頸椎の退行変成(一般にいう老化現象)、脊柱管狭窄症、後縦靭帯骨化症、頸椎の奇形があげられ、<2>精神・心理的要因として、鞭打ち損傷に関する誤った社会通念、重病感を植えつける治療、被害者意識、本人の性格的問題があげられていることが認められる。

そして、前記二・11に認定したとおり、平成元年四月二二日付け病休承認申請書に添付された野間医師作成の診断書には、頸部捻挫により約三週間の通院加療を要する見込みであると記載されていたところ、同医師は、荒川副院長の電話による照会に対し、二週間は休養加療、一週間は通院加療の趣旨であるとの回答をしていること、また、前記二・12に認定したとおり、同年五月一三日付けの本件病休承認申請書に添付された診断書には、頸部捻挫により現在通院加療中であると記載されているにすぎず、休養加療を要する旨及びその期間の記載がないところ、野間医師は、荒川副院長らの病状調査に対し、出勤しようと思えばできる状態で、勤務に就くことは本人の働く意志次第であり、本人には勤務に就いてもよいと話してあり、診断書の内容は休養を要することを意味していない旨を回答していた。

鞭打ち損傷に関する前記医学的知見からすると、原告の頸椎捻挫は、平成元年五月一三日には、既に受傷から三五日を経過し、症状の経過としては亜急性期に入っており、その間、病休を承認され、相応の通院治療も受けているのであるから、前記のとおり軽度の頸椎捻挫であることからすれば、既に勤務可能な程度に回復しているものと考えられ、野間医師の前記回答も右推認を裏付けるものと認めるのが相当である。

それにもかかわらず、原告は、前記のように長期にわたり欠勤し、通院治療を受けているが、右認定事実からすると、原告自身の就労意欲の欠如に右長期欠勤の原因があると認めるのが相当である。

(3) 原告は、野間医師が、平成元年五月二四日当時、「中材婦長という職種からみて勤務できる状態ではない。」との意見を有していて、(証拠略)に担当医の意見として記載されている内容(前記二・12(二))は虚偽である旨供述するところ、野間医師は、人事院公平委員会の証人尋問において、(証拠略)に記載された内容中、理学療法担当者の意見等を総合すると、最初は辛そうであったが近頃はさほどでもないとか、出勤しようと思えばできる状態であるとか、平成元年五月一五日付診断書の「通院加療」は休養を要することを意味しない等の説明をしたことはなく、副院長及び看護部長に対し、中材婦長という職種から見て勤務できる状態でないこと、先のことがわからないが初診から九〇日以内に勤務可能となるだろうこと、「通院加療」については、入院加療に対するものであり、休養を要するか否かは職種によって異なり、原告の場合は勤務できない状態であることを説明した旨を供述したことが認められ(<証拠略>)、また、平成四年五月一八日現在の野間医師の所見は、「手を使いすぎると右前腕から手にかけて尺骨神経域が痺れてくる。疲れてくると方(ママ)が凝り、右頂部・頸つけ根から右甲間部にかけて痛くなる。うつ向いて仕事をしている時間が長いと右上肢が痺れてくる。頸椎の可動性がわずかに制限される感あり。叩打痛なし。頸部の後屈、左前屈を強制すると、右頸つけ根に疼痛を訴える。また同部に圧痛がある。頭頂部から強く圧迫すると、右肩から右上肢にかけて放散痛がある。右上肢尺骨神経域に近く鈍麻あり。尺骨手根屈動筋力が減弱している。握力右一五・左二四。エックス線所見・頸椎に軽度の変形性変化を認める。」とされていることが認められる(<証拠略>)。

しかしながら、証拠(<証拠・人証略>)によれば、野間医師は、平成元年五月一五日付診断書を作成するにあたり、これが病休承認申請の証明資料として添付されるものであることを知りながら、単に「現在通院加療中である」とあいまいで不明確な診断内容を記載しただけで、診療録にも原告が今後とも休暇をとって休養すべき特段の他覚的症状・所見について記載がないだけでなく、その間に問診以外に客観的諸検査をした形跡もなく、既往症についても確認することなく診察を継続し、もっぱら主として原告の主訴によって治療方法を決めていたものであることが認められ、野間医師の前記供述・所見は早い時期に原告の診療に当たった戸島医師、佐手医師の診断とは対照的でありながら、その判断の具体的根拠が不十分であるといわざるをえないのである。他方、証拠(<証拠・人証略>)によれば、荒川副院長と田河内看護部長は、原告から提出された前記診断書の記載内容が不明確であったため、更に一定期間の病休を承認すべきものであるならば正当な書式の診断書等を提出させるべく、院長の命により、まず、野間医師に原告の病状を確認したところ、(証拠略)に記載のとおりの回答を得たものであり、同医師が前記供述・所見のとおりの回答をしたのであれば、それをそのまま報告記載することになんら支障はなかったものと認められ、前記二・(11)のとおり、平成元年四月二二日付診断書に「三週間の通院加療を要する」と記載されていたことについて、野間医師の説明に基づき、記載どおりの期間の病休を承認していることからすれば、(証拠略)に記載された内容が荒川副院長及び田河内看護部長において野間医師の当時の説明と異なる事実を恣に記載したものではないかとの疑念の生じる余地はなく、他に原告の主張を裏付けるに足りる証拠はない。

(四) そうすると、本件病休承認申請は、勤務しない事由が客観的に証明されたとはいえず、被告がこれを不承認としたことをもって違法不当ということはできない。

四  本件懲戒免職処分の適否

1  原告は、前記二・2ないし7に認定したとおり、本件配置換えを拒否し、廣川院長や田河内看護部長らの再三にわたる勧告・指示を無視し、平成元年四月一日から同月七日午前中までの間、一六病棟に居座り、病棟管理日誌を作成し、新規採用者のオリエンテーションを行う等、本来新任の望月婦長が行うべき業務を行い、また廣川院長らの姿を見ると患者の入院している病室に逃げ込み、あるいは看護婦らに対し、「私になにかあれば皆に証人になってもらうよ。」等と告げて圧力を加えるなどして、一六病棟の業務遂行を極度の混乱におとしいれたものであり、入院患者の身体的・精神的安定の保持に努めるべき職責を有する看護婦の行動として、あるまじきものというべきである。

2  また、証拠(<証拠・人証略>)によれば、原告が中材婦長に着任しないため、病院当局は、平成元年四月一日から同月三〇日まで矢場副看護部長に、同年五月一日から同年六月一五日まで阿津副看護部長に、それぞれ中材婦長を代行させ、同年六月一六日から同年九月三〇日まで阿津副看護部長に中材婦長併任を命じ、また同年四月四日から同年九月三〇日まで、退職したばかりの矢島前婦長を非常勤職員として採用し、中材勤務を命じざるを得なくなったものであり、中材に生じた業務支障も無視することはできない。

3  原告は、前記二・9及び10に認定したとおり、平成元年四月一〇日、浅井次長に対し、本件配置換えに従う旨を申し出、同次長の指示に従い、始末書を作成し、翌一一日、廣川院長から本件配置換えの辞令の交付を受け、反省している旨述べ、右始末書を提出する等したものであるが、その後の原告の行動をみると、矢場副看護部長らを介し、病休承認申請書を提出しただけで全く出勤せず、その間、同年四月二二日、同月二五日及び同年五月一五日に病休申請等のため来院したのみで、しかも、終期の記載のない不備な病休承認申請書を提出しておきながら、病院当局になんの連絡もせず、病院当局から原告に連絡を取ることすら著しく困難な状況にし、平成元年五月一三日からは、本件病休承認申請を不承認とされたにもかかわらず、欠勤を続けたものであって、就労意欲は全くみられず、真に反省していたかどうか極めて疑わしいといわざるを得ない。

4  本件配置換え発令の日である平成元年四月一日から本件懲戒免職処分の日である同年六月一六日までの原告の欠勤日数についてみると、前記二・2ないし14に認定した事実と、証拠(<証拠略>)によれば、平成元年四月一日から同月七日午前までの間、本件配置換え拒否による欠勤が六日と半日、同月七日午後の年休不承認による欠勤が半日、同月八日及び一〇日の病休不承認による欠勤が二日、同年五月一三日ないし同年六月一五日までの間、病休不承認による欠勤が二六日、以上合計三五日(二五六時間)であり、決して少ないものではない。

さらに、原告は、本件配置換えの内示後、上司である田河内看護部長らに対し、「自分はどうして中材に配置換えになったのか、その理由をいえ。」「あんたとこうして始めて話すんだ。内示を受けるつもりはない。」などと暴言を吐き、本件病休申請不承認決定後の勤務命令に対し、「廣川院長らを刑事告訴する準備中である」、とか「就労したくも貴方達の暴行により受けた傷害により就労できる状態ではない。」などと反抗的な態度をとり、規律を重んじる姿勢が認められなかった。

以上のように、原告の言動は、看護婦長として部下を指揮監督すべき立場にある者としておよそ常軌を逸するものであり、職場の秩序を乱した責任は極めて重大であり、原告が昭和三九年三月以来、国立病院看護婦等として約二五年四か月勤務(その間、国府台病院には昭和四八年七月以来、約一六年間看護婦長として勤務)してきた功労を考慮に容れ、そして、原告が提出した始末書をその提出目的・趣旨を原告の弁解から離れて最大限に有利な事情として斟酌しても、病院のした本件懲戒免職処分が裁量権を逸脱した濫用にわたるものということはできない。

第四結論

以上によれば、原告の本訴請求は理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 遠藤賢治 裁判官 吉田肇 裁判官 佐々木直人)

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